恩師はいま 島一郎先生を訪ねて of 同志社大学 経済学部 島ゼミ同窓会 「寒梅会」

安田幸生19期生(1984年度生)

お元気で日々研究・教育にその情熱を傾注しご活躍のことと信じて疑わなかった恩師・島一郎先生が、大病を患い入院されたとの報に接したのは、三年前の夏のことでした。

いてもたってもいられなくなった私は、大きな動揺を隠せないまま、入院初日で却ってご迷惑かと思いつつも、気が付けば看護師の妻にも付き添ってもらって病院へと車を走らせておりました。

学部・大学院を通して不肖の弟子で、それ以後も先生に「親孝行」の一つさえ出来ぬまま、こんなかたちでしか再会できなかった私を、先生は、在学中よく先生のお宅を訪ねたあの頃と変わらないその温かな心と笑顔で迎えてくださいました。

今度こそ「親孝行」をと、先生をお見舞いするはずであったのに、その帰りには、わざわざ病室から正面玄関まで、奥様と私たちを見送ってくださいました。これから厳しい闘病生活が始まるという時でさえ、こうして教え子のことを第一に考え接してくださる先生のお人柄に触れ、改めて、先生の教え子に対する愛情の深さと自らの先生への敬愛の念の深さを痛感し、その思いに満たされながらの帰路となりました。

安田さん.jpgその後先生は、ご家族はもちろん多くの親しい方々からの暖かい激励と日進月歩の医療に支えられてその病と闘い、当初は到底無理ではないかとご自身も思われた復職を果たされると、闘病中の先生にとって最も大きな心の励みであり、その復帰を心待ちにしていた三十五期生の島ゼミ最終学年を無事送り出し、昨年三月に定年を二年繰り上げて、四十三年にも及ぶ同志社大学の教員生活に終止符を打たれました。




退職後の先生は、お身体を癒されながら病状も小康を保たれ、「生きていることの素晴らしさ」を日々感じながら、その若き日々に出会い深い感銘を受けた名著のいくつかを読み返して自らの人生の原点を確かめられたり、人生の節々で出会った多くの友人や教え子との旧交を暖められるなかでご自分の人生がいかに恵まれていたかを改めて感じられたり、さらに最近は島ゼミ『寒梅会』のホームページ作成のお手伝いまでも精力的にこなされるなど、「健康の制約はあっても、久々に得た『自由な時間』を、この一年は好きなように、楽しく有意義に過してみたい」という願いをひたすら実践されておられるようでした。

そんな中、この一月にはご次男に女の子が生まれ、「遅まきながら初孫誕生で喜んで」おられる先生のお宅に、心ばかりのお祝いを手にして向かったのは、校祖・新島先生が詞に詠み、わがゼミOB・OG会の名にもなっている『寒梅』が、綻び始める頃のことでした。

先生とお会いするのは、ご退職の慰労をかねて、第一期生から第三十五期生までの島ゼミ全学年から総勢約一七〇余名が参加して昨秋開かれた第八回『寒梅会』以来のことでした。

懐かしい先生宅の座敷は、昔のままでありましたが、先生の同志社中学校以来の親友であり畳商を営む私の父の入れた畳の上に、どっかりと胡座をかいでおられたあの頃とは違って、「最近、足腰が弱くなって」と、先生はその隣の洋室の椅子の方に腰掛けられました。

「座敷でないと腰を据えて話しも出来ない」と、椅子に座って学生と杯を交わすことを拒んでおられた当時の先生を知る一人としては、もちろんその光景に一抹の寂しさを感じましたが、いざ会話が始まると、思いの外お元気なご様子で、その「島節」もご健在であって、あの頃のように次第に先生のお話の魅力に惹き込まれてゆきました。

ことに、昨今の厳しい世相に話が及んで、「僕も含め一人ひとりが、『いつか来た道』を再び歩むことのないように、今日の平和の尊さをよく噛み締め、『良心』に従って後悔のない選択をしなければいけない」と熱を込めてお話しになる様は、病気を患いまもなく古希をお迎えになるとは到底思えないあの頃の教師のお姿そのものであり、同時に、「軍国主義の暗い谷間に育ち、日本の侵略が中国に残した深い傷跡の一端をかいまみよう」と、その時代の中国民族工業の展開過程の研究にいそしまれてきた現役の研究者のお姿そのものでもありました。

そして改めて、新島先生の一節、「真理は寒梅の如し、敢えて風雪を侵して開く」の精神をしっかりと胸に刻まれ、同志社の研究・教育者として真摯に歩んでこられた先生の生きざまに触れた思いが致しました。

名残惜しく思いながら、帰り支度を済ませて庭に目をやると、そこには梅の木がこちらに何かを語りかけるように立っていました。そんな『寒梅』をよそに、先生は、今回もやはりわざわざ外まで出られて、その教え子の一人の私を親身に見送ってくださいました。

再見!島先生。

(同経会報)no.68 06/4)より転載